介子推介子推 割股奉君 春秋時代、晋の文公亡命19年に介子推は自らの腿肉を切取り飢えを救う。 文公即位後、介子推は王を支えた誇りのみで十分の栄誉として山に籠り下りず、文公は山に火を放ちあぶり出そうとするが、 『多くの褒美を貰うため擬装隠遁したとの汚名は負わず』として焼死、文公は介子推を讃え綿山を介山と改め、 その命日は火を禁じ冷食で焼死を悼み寒食節とし、次の日、清明節は春分から15日目に当たり墓参りの習慣がある。 しかし、 これは美談に過ぎ、事実は、介子推は腿だけでなく全ての肉を喰われたのであろう。 三舎を避く 晋の文公、亡命19年に楚で優遇の返礼を求められ「貴方と戦う時は三舎を退きましょう」と約し、後に実際戦い三舎(3日分)を退いた。 しかし、 これも疑惑の美談で、恩を忘れた侵略に怒り心頭の楚の勢いに、3日分を退却したにしても、丁度そこには味方の援軍が到着していた。 (城濮の戦い) 他にも怪しい話有り、丼で嫌がらせの土を貰ったから土地は貰った、とか、裸を覗かれた仕返しに領土を取った、とか、 晋の文公は疑惑の覇者である。 |